7.リバプール・サウンドとブリティッシュ・インヴェイジョン-1964-1965年

  1. マージービート(Merseybeat)-ビートルズ(The Beatles)の登場
  2. 首都ロンドンのムーブメント-ブリティッシュ・ブルース
  3. イギリスからの侵略-ブリティッシュ・インヴェイジョン
  4. イギリスの海賊ラジオ局(Pirate radio)

7.リバプール・サウンドとブリティッシュ・インヴェイジョン

A.マージービート(Merseybeat)-ビートルズ(The Beatles)の登場


The Silver Beatles

Gerry & The Pacemakers

Rory Storm and the Hurricanes

cass and the Cassanovas

Derry and the Seniors
The Swinging Blue Jeans

1959年のイギリスでは、表立った音楽シーンとしては、マーティ・ワイルド(Marty Wilde)、トミー・スティール(Tommy Steele)などのポップアイドル、シャドウズ(The Shadows)などのギターインストが人気でしたが、その陰で、ガレージバンドたちが独自のミュージックシーンを作っていました。
かれらは自身を「ビート・グループ」と呼ぶようになり、地元のコーヒーバーなどで、精力的に活動を続けます。

大きく分けて、ガレージバンドが活発だったのは「リヴァプール(Liverpool)」「マンチェスター(Manchester)」「バーミンガム(Birmingham)」「ロンドン(London)」という都市圏でしたが、特にリヴァプール出身バンドはリヴァプールを貫流する「マージー河」から由来された「マージー・ビート(Merseybeat)」と呼ばれるようになります。

「マージー・ビート(Merseybeat)」のグループの特徴としては、アメリカから来たロックンロールと船員達が持ち込んだR&Bのレコード、フィル・スペクター(Phil Spector)のガール・グループの影響によるハーモニーであるといわれています。

この頃のリヴァプールの人気バンドは「シルバー・ビートルズ(The Silver Beatles)」「ジェリー&ザ・ペースメーカーズ(Gerry & The Pacemakers)」「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)」「キャス&ザ・カサノヴァズ(cass and the Cassanovas)」「デリー・ウィルキー&ザ・シニアーズ(Derry and the Seniors)」「スウィンギング・ブルー・ジーンズ(The Swinging Blue Jeans)」など。

彼らは地元のコーヒーバーやクラブで、腕を競い合っていました。

1960年 リヴァプールでコーヒーバーを経営する傍ら、リヴァプールの巡業のほとんどを取り仕切っているプロモーター「アラン・ウィリアムズ(Allan Williams)」は、ドイツのハンブルグの歓楽街でクラブを経営している「ブルーノ・コシュマイダー」という男と知り合い、荒っぽい客層に受けそうなイギリスのバンドを探しているといわれ、いくつかのリバプールのバンドをドイツに送り込みます。当時、星の数ほどあるビートバンドに取って、リヴァプールだけでは、演奏の仕事が少なく、他の国に巡業にいくことは、一般的なことでもありました。

しかし当時のドイツの港町ハンブルグは、ヨーロッパ最大の悪名高き歓楽街であり、そこにあえて酒と女を求めてやってくるものや、寄港しているアメリカ、イギリスの兵達達が集まってくるという、リヴァプールなど問題にならないくらい荒れた街でした。

いくつかのバンドが断りましたが、この仕事を請け負った中に「シルバー・ビートルズ」がいました。(巡業が始まってからグループ名を「ビートルズ-The Beatles」に変更)

睡眠もろくに取れず、劣悪な環境で、聴く気もない相手に、彼らは激しいビートで対抗するしかなく、また、ジュークボックス代わりにスタンダードナンバー「ビギン・ザ・ビギン(Begin the Beguine)」や、「ベサメ・ムーチョ(Bésame mucho)」のようなポップソングなど、演奏させられるため、結果、飛躍的にレパートリーが増えていき、鍛えられていきます。

このツアーは楽屋でのぼや騒ぎなどで労働許可証を取り上げられるなどのトラブルがありツアーが取り消され、惨めな結果に終わったと意気消沈して帰国するが、このツアーで彼らは飛躍的に成長していました。

ビートルズはリヴァプールでハンブルグで鍛えられた激しいビートを観客にぶつけます。この演奏はアメリカ仕込みの甘いポップソングにあきあきしていた、本来のロックンロールの激しさを望んでいたリヴァプールの若者達に受け入れられ、リヴァプールでの人気は徐々にあがっていきます。

The Cavern Club

1961年の2度目のハンブルグ巡業では、リヴァプールでの人気を受けて酔っぱらい以外にも地元の学生達が「ビートルズ」目当てに集まるようになります。
さらに、巡業先では前回の巡業で一緒になったトニー・シェリダン(Tony Sheridan)のレコーディングのバックバンドに起用され「マイ・ボニー(My Bonnie)」を録音。(バンド名はビート・ボーイズ)

帰国後にはリヴァプールにあるマシュー・ストリートにある名門「キャヴァーン・クラブ(The Cavern Club)」のレギュラーを獲得します。

そんな「ビートルズ」の人気に野心を持って近づいたのが、リバプールの中心部、グレート・シャーロット通りに「NEMS レコード」を構えていた経営者「ブライアン・エプスタイン(Brian Epstein)」。
「NEMS レコード」で彼は独自の経営方法を発揮し、イギリス北部最大の売り上げをたたきだしていました。

この店の常連客が「マイ・ボニー」のシングルを注文したことで、ビートルズというグループに目を付けた…とエプスタインの自伝に書いていますが、これは諸説あり、プロモーター「アラン・ウィリアムズ」などとも親交があったエプスタインが、この時点で地元でかなりの人気を博していた「ビートルズ」を知らない訳がなく、話題性のための演出説が濃厚となっています。

Brian Epstein

エプスタインは、キャバーンクラブで演奏していた「ビートルズ」にマネジメントの話を持ちかけ、契約。革ジャン、ジーンズという不良ファッションを一新させスーツを着せ、演奏が終わるたびに一礼させるなど、まず外観の変革からはじめ、一般にも受け入れられるように演出、レコード会社への売り込みを始めます。

1962年 DECAレコードのオーディションは不合格(後にDECA最大の失敗といわれた)、次に音楽プロデューサー「ジョージ・マーティンGeorge Martin)」への売り込みに成功、一度は断られたEMI-パーロフォンレコードとの契約にこぎ着けます。

しかし、EMIの上層部はジョージ・マーティンが評価をしているというだけではビートルズを売り出すことには懐疑的でした。
1963年 リリースのファーストシングル「ラブ・ミー・ドゥ(Love Me Do)」は、ほとんど宣伝をしてくれず、全英チャートで17位。
売り上げがリヴァプールに集中しているため、エプスタインが買い上げたのでは、ともいわれるほどでした。

EMIに失望したエプスタインはジョージ・マーティンに相談、マーティンは2〜3の出版社を紹介、マーティンはその中でイギリス系の出版社を立ち上げたばかりの「ディック・ジェイムズ(Dick James)」に連絡を取り、できあがったばかりの「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」を聴かせます。その場でジェイムズはABCの人気テレビ番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ(Thank Your Lucky Stars)」への出演を手配。

Thank Your Lucky Stars

Thank Your Lucky Stars

全国ネットのこの番組に出演した威力は凄まじく、EMIも重い腰を上げずにいられなくなり、ラジオ・ルクセンブルグのEMI枠に出演させます。ビートルズは全英レベルの人気となり「プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)」は全英1位を獲得。「フロム・ミー・トゥ・ユー(From Me To You)」「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」と、シングルをリリースする都度、のきなみ全英1位を獲得。

イギリス国内で「ビートルマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出すようになっていました。
エプスタインは、アメリカ進出を画策し始めます。


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  3. イギリスからの侵略-ブリティッシュ・インヴェイジョン
  4. イギリスの海賊ラジオ局(Pirate radio)