7.リバプール・サウンドとブリティッシュ・インヴェイジョン-1964-1965年

  1. マージービート(Merseybeat)-ビートルズ(The Beatles)の登場
  2. ブリティッシュ・ブルース-首都ロンドンのムーブメント
  3. イギリスからの侵略-ブリティッシュ・インヴェイジョン
  4. イギリスの海賊ラジオ局(Pirate radio)

7.リバプール・サウンドとブリティッシュ・インヴェイジョン

D.イギリスの海賊ラジオ局(Pirate radio)


Radio Caroline

1964年3月28日正午、イギリスサフォーク州フェリックストゥ沖5マイルに停泊した古いオランダのフェリーから、イギリス本土に向けてビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラブ」を皮切りに、ラジオ放送を開始。船の名前は「キャロライン号」。
政府未許可のラジオ局「ラジオ・キャロライン(Radio Caroline)」がスタートします。

当時、イギリスには民放のラジオ局はなく、公営放送のBBCでは、ポピュラーミュージックの放送は1日に45分しか流さないという環境で、若者は唯一ポピュラーが聴ける「ラジオ・ルクセンブルグ(Radio Luxembourg)」というルクセンブルク大公国のラジオ電波を、雑音まじりの音を耳をこらして聴いている状況でした。

そんななか、DJスタイルのビート・ミュージックの海賊放送「ラジオ・キャロライン」がスタート。イギリスの若者に熱狂的に支持されます。

Ronan O’Rahilly

オーナーは「ローナン・オレイヒリー(Ronan O’Rahilly)」。かれはマネージメント会社「リック・ガンネル・エージャンシー(Rick Gunnel Agency)」でジョージィ・フェイム(Georgie Fame)などのマネージャーをしていた人物で、BBCにフェイムのシングルのオンエアを苦労してアプローチしたにもかかわらず、結局オンエアしてもらえなかったことに失望し、それであれば自分で配信してしまおうと、当時、オランダ沖からヨーロッパに放送を行っていた「ラジオ・ヴェロニカ(Radio Veronica)」をヒントに海賊放送船のアイディアを思いつきます。

オレイヒリーは、彼の父親の持ち物であったアイルランドのグリーノアの港を母艦に、古いオランダのフェリーを買い付け、放送設備を積みこんでフェリックストゥ沖に停泊して放送を開始。ブリティッシュ・ロック、アメリカのロックンロールやR&Bを24時間ノンストップでかけ続けました。

当然、放送開始後、イギリス政府からはクレームがきますが、公海上に停泊しているためイギリスの法律では取り締まれず、5月にはアラン・クロフォード率いる第2の放送船「ラジオ・アトランタ(Radio Atlanta)」が誕生。オレイヒリーとクロフォードは合併会社を作り、スポンサーの営業を一括して行うなど、放送局としての基盤整理も怠りませんでした。

Radio Sutch-Shivering Sands

この2つの海賊放送に続けと、「ミ・アミーゴ(後にラジオキャロライン・サウスと改称)」「ラジオ・ロンドン(Radio London)」「ラジオ355(別名ラジオ・ブリテン)」「ラジオ270」と次々と海賊放送局が洋上に開局。

さらに、船だけではなく第二次世界大戦中に北海沿岸に建設され、戦後放置された海上要塞も公海上にあるということで海賊放送局として不法占拠して放送する者も現れます。
シヴァリング・サンズ(Shivering Sands)要塞はミュージシャンのスクリーミング・ロード・サッチ(Screaming Lord Sutch)らが占拠「ラジオ・サッチRadio Sutch(のちにラジオ・シティと改名)」として放送、フォート・ノック・ジョン要塞は「ラジオ・エセックス」として放送を開始。これらを含め、20局以上の海賊放送局があったといわれています。

やがて、放送局は個性を出し始め「ラジオキャロライン」はR&B、ブルー・ビート、スカ、ロックステディなど、「ラジオ309」はブルース、「ラジオ・シティ」はビートルズとローリングストーンズ、といったように、多様な音楽を展開。
イギリスの音楽シーンに多大な影響を与えました。

海賊放送の影響力は、レコード会社やプロダクションに評価され、自身の会社から発売する新譜のテスト版をいち早く海賊放送に送付してオンエアしてもらったり、レコードのB面の出版権を海賊放送局の出版社にわたし、A面がヒットしたら、その分のもうけが海賊放送側にもにも入るようになる、という戦略を考えるレコード会社も現れました。(当時海賊放送局は自費でレコードを購入していた)

John Peel-Radio London

海賊放送からは、人気DJも多く輩出。当時最も人気のあった海賊ラジオ局は「ラジオ・ロンドン」でしたが、「ジョン・ピール(John Peel)」「トニー・ブラックバーン(Tony Blackburn)」「ケニー・エヴァレット(Kenny Everett)」などが在籍。かれらは後にBBCラジオなどに起用され、活躍することになります。

一方、こういった海賊放送に対抗するために国営放送BBCでもロックを中心とした番組「トップ・ギア(Top Gear)」などをスタート。ビートルズををまねき、「BBCセッション」を数多く残しました。

しかし、BBCはミュージシャンの組合の問題で、番組でレコードはかけず、本人達に出演させて、番組で演奏させるという方法での放送だったため、コンサートや映画、テレビの出演で忙しくなったビートルズは、勝手にどんどん宣伝してくれる海賊放送があるため、わざわざBBCに生出演する必要がなくなり、1965年以降、一回も出演しなくなります。一方、海賊放送局のインタビューには音楽以外の話にも応じるなど、海賊放送の活動をフォローしています。また、ビートルズ以外のイギリスのミュージシャンも、海賊放送局の活動を支持。

一方、海賊放送の恩恵を受けなかったレコード会社やアーティストも現れたのも事実で、レコードが売れなくなったと、かれらはイギリス政府に圧力をかけ始めます。また保守的な大人達は、当然ロックンロールや、下品なDJの放送の閉め出しを希望します。

Goodbye to the pirate

政府は海賊放送船が補給を行う港に圧力をかけヨーロッパの港から閉め出したり、CMをだしていたスポンサーに脅しをかけ始めます。最終的に「電波法」という法律を改定、政府は公海上の海賊放送船の一掃に乗り出します。

1967年、唯一法廷闘争の姿勢を見せていた「ラジオ・キャロライン」だけを証拠保全のため残し、他の海賊放送を撤去。
「ラジオ・ロンドン」の放送終了日にはリンゴ・スターが寄せたお別れのメッセージが、放送されました。

海賊放送の影響力を無視できなくなったBBCは取り締まりの約1ヶ月後、FMラジオ局「BBCラジオ1」をスタート。ポップス中心の番組で、DJにあの海賊ラジオ局の人気DJ「ジョン・ピール」「トニー・ブラックバーン」「ケニー・エヴァレット」などを起用。

番組は好評を博し、アーティスト達もBBCに出るようになります。
DJたちはつぎつぎと新しいアーティストを発掘し、後のイギリスの音楽シーンに送り出していきました。

海賊放送局の活躍はたった4年程度の期間ではありましたが、イギリスの多くの若者により多くのビート・ミュージックを伝えた功績は計り知れないものがあります。

1970年には、また新たに海賊放送船が現れ、政府との攻防が始まりますが、1973年には国内における地上波の民営放送局の認可がなされ、約60の民営放送局がイギリス各地に生まれました。

>>8.ロックの多様化-1965-1970年前半:8-A.フォーク・ロック

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  1. マージービート(Merseybeat)-ビートルズ(The Beatles)の登場
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