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♣ザ・ランナウェイズ(The Runaways) について♣
ランナウェイズは、1975年にアメリカで、10代の女の子だけで結成されたガールズロックバンド。
Joan Jett/ジョーン・ジェットが在籍していたことで知られる。
デビュー曲「チェリー・ボム-Cherry Bomb(悩殺爆弾)」は特に日本では、爆発的にヒット。
ヨーロッパ、アジア、カナダ、南米では人気を博したが、その衣装(コルセット・ガーターベルト姿)などから、アメリカ本国では際物扱いされ評価されず、5枚のアルバムを出したが音楽性の違いなどもありメンバーが相次いで脱退、1979年に解散。
近年は、その音楽性も再評価されている。
2010年3月 シェリー・カーリー(Cherie Currie-Vo)が書いた自伝「ネオンエンジェル((Neon Angel)」をもとにした映画「ザ・ランナウェイズ(The Runaways)」が公開、ジョーン・ジェット(Joan Jett)がエグゼクティヴ・プロデューサーであることで話題となった。(日本公開は未定)
アーリーランナウェイズ
9歳のときからドラムを叩いていたサンディ・ウェスト(Sandy West)が、ガールズロックバンドを作るという目的のもと、南カリフォルニアで音楽関係者に接触、音楽プロデューサーのキム・フォーリー (Kim Fowley) と出会う。
キム・フォーリーはその頃、14歳の詩を書いている、カリ・クローム(Kari Krome)とアリス・クーパ(Alice Cooper)のパーティで知り合い、彼女の詩に感銘を受け、彼女のバンド作成をプロデュースするため、カリ・クロームと同年代の女の子のバンドメンバーを探している最中であった。
サンディに興味を持ったキム・フォーリーはギタリストのジョーン・ジェット(Joan Jett)の電話番号を教えた。落ち合った2人は意気投合。キム・フォーリー (Kim Fowley) の前で演奏し、フォーリーはカリとジョーン、サンディの3人でバンドを組むことを考えた。
しかし、カリがボーカルとしては不向きであったために、ほかのメンバーを探すことに同意。
ベースのミッキ・スティール(Micki Steele-のちにバングルス-The Banglesに加入)を加えた3人で、ロスアンジェルスのクラブを回り始める。
1975年、17歳のリタ・フォード(Lita Ford-G)がオーディションで加入。
しばらくして、SugarShackというディスコで15歳のマリーとシェリーの双子の姉妹に出会う。
最初、彼らはマリーにバンドへの加入を打診するが断られたため、シェリーに打診。
シェリー・カーリー(Cherie Currie-Vo)が加入。これに伴いミッキ・スティールを解雇。
さらに、すこし円熟さを出すために19歳のぺギーフォスター(Peggy Foster)をベースで加入させたが、あるバラード曲でリードボーカルを自分か、シェリーがとるかでもめ、結果それが引き金となり1ヶ月で脱退。
代わりにギタリストだったジャッキーフォックス(Jackie Fox )がベースで加入。
ここで初期メンバーがそろうことになる。
名声
1976年、ランナウェイズはマーキュリーレコード(Mercury Records)と契約。
まもなくデビューアルバム「ランナウェイズーThe Runaways」発表。同時にUSツアーを開始。
シェリーの衣装「コルセットにガーターベルトという下着姿」が話題を呼び、ツアーは人気を博す。※1
また、チープトリック、トム・ペティアンドザ・ハートブレイカーズ、バン・ヘイレンの前座をつとめるなど精力的に数多くのライブをこなした。
1977年、セカンドアルバム「クイーンオブノイズーQueens of Noise」発表(プロデューサーは元SparksのEarle Mankey)
同年、ワールドツアーを開始。この頃には、ランナウェイズは発展するパンクロックムーブメントの一つとしてみとめられるようになる。
この夏、ワールドツアーの一つとして、来日。
当時、日本にとってランナウェイズは日本に輸入された音楽の中で、ABBA、キッス、レッドツェッペリンに次ぐ4番目の大人気アーティストだったが、本人たちはそこまで日本で人気があるとの自覚はなく、日本の空港でのファンの女の子からの猛攻撃に準備ができておらず、相当驚いた。
この集団ヒステリーは、のちにジョーン・ジェットに、「まるでビートルマニアのようだった」と語らせるほどだった。
日本にいる間、ランナウェイズは彼らの特別番組に出演したり、たくさんのTV番組に出演。
ゴールドディスクになったアルバム「ライブインジャパン」を発売。
しかし、ベースのジャッキーフォックスが 東京ミュージックフェスティバル出演の直前にバンドを脱退、急遽ジョーン・ジェットが一時的にベースを担当、帰国後ベースを17歳のビッキ・ブルー(Vicki Blue)と入れ替える。
その後、シェリーカリーが脱退。ジョーンジェットがフルでボーカルを務めるようになる。
※シェリー・カーリーの外観はデヴィッド・ボウイ、ジョーン・ジェットはスージークアトロ(Suzi Quatro)、キースリチャーズ(Keith Richards),リッチーブラックモア(Ritchie Blackmore)、Queenのドラマーのロジャーテイラー(Roger Taylor)、ジーンシモンズ(Gene Simmons)を参考に作られた。
解散
1978年、お金とバンドの運営についての意見の相違で、ランナウェイズとキム・フォーリーはたもとを分けた。
キム・フォーリーとはなれたことで、マーキュリーレコードとも契約を解除。
バンドは早急にブロンディとスージークアトロのプロデューサーやシンリジィ(Thin Lizzy)のプロデューサーに協力を依頼。
4枚目のアルバム「Waiting For The Night」発表。
アルバム発売後、彼らの友人、ラモーンズ(The Ramones)とワールドツアー開始。
このアルバムは、ヨーロッパとアジアでしか発売されず、のちの1981年にリイシューを中心に販売するライノ・レコード(Rhino Records)から「Little Lost Girls」というタイトルで発売された。
この頃から、パンクロックがすきなジョーン・ジェット、ヘヴィメタルがすきなサンディとリタとの音楽性の違いによるメンバー間の軋轢が大きくなる。
彼らはシンリジィプロデューサーのジョンオルコックと、ジェットの将来のパートナー、ケニーラグーナと提携し、ランナウェイズの仕事を縮小、最後のアルバムを録音。
1979年 ベーシストのビッキ・ブルー(Vicki Blue)が脱退。
ローリー・マカリスター(Laurie McAllister)が加入したが、直後にジョーンも脱退を表明。
同年4月、解散。すべての活動に幕を終ろした。
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