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♣ボブ・ディラン(Bob Dylan)について♣

1941年5月24日生まれ
1962年 デビュー。
本名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だったが、
のちに本名もボブ・ディランに改名。
詩人としてはノーベル文学賞にノミネートされるほどであり、20世紀半ば以降の文化において極めて重要な位置を占めている。
アメリカを代表するアーティストの一人として、デビュー以来多大な影響をアーティストたちに与えている。
♣ボブ・ディラン(Bob Dylan)ヒストリー♣
アーリー・ボブ・ディラン
ボブ・ディラン(Bob Dylan)は1941年、アメリカ、ミネソタ州ダルース生まれ。
1947年頃、家族とともにヒビングに転居。
1959年、ロックが死んだ、といわれた時代に大学に進学、ヒビングから200マイルはなれたミネアポリスのミネソタ大学に入学。
この頃に、音楽の興味がフォークになり、学校にはほとんど行かずミネアポリスのグリニッジヴィレッジといわれるディンキータウンに入り浸るようになります。
ここで、ウディ・ガスリーの音楽に出会い、また、「ビッグ・ジョー・ウィリアムス(Big Joe Williams)」「ジェッシー・フラー(Jesse Fuller)」などのブルースの洗礼を受けることになります。

そのまま、住み着くようになり、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーショップで歌いながら少しずつファンを増やしていき、「エリック・フォン・シュミット(Eric Von Schmidt)」「デイブ・ヴァン・ロンク(Dave Van Ronk)」ウッディ・ガスリーの親友「ランブリン・ジャック・エリオット(Ramblin’ Jack Elliott)」など、東海岸のフォークシーンの主要メンバーとも親交を深めていきます。
デビュー
1961年、「ハリー・ベラフォンテ」「ビッグ・ジョー・ウィリアムス」「キャロリン・ヘスター」などのレコーディングにブルースハープで参加。
ヘスターのレコーディングで「コロンビア・レコード」のA&Rジョン・ハモンドの目に留まり、契約。1962年 ファースト・アルバム「ボブ・ディラン」を発表。
1963年「フリーホイーリン・ボブ・ディラン(The Freewheelin’ Bob Dylan)」発表。
収録された「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」「くよくよするなよ(Don’t Think Twice, It’s All Right)」が「ピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)」にカバーされ、世界的にヒット。
このヒットで、ソングライターとして一躍注目されるようになる。
また、一緒に収録の「戦争の親玉 (Masters of War)」「はげしい雨が降る(A Hard Rain’s a-Gonna Fall)」「第3次世界大戦を語るブルース(Talking World War III Blues)」が、公民権運動が高まっていたアメリカで、プロテストソングの旗手として脚光を浴びるようになります。
1964年 3枚目のアルバム「時代は変る(The Times They Are a-Changin’)発表。
もっともプロテスト色の強い作品。
表題作「時代は変る(The Times They Are a-Changin’)」は、ピーター・ポール&マリーにカバーされ、またもや大ヒット。プロテストを代表する曲となり、多くのアーティストにカバーされる。
ディランの人気は「フォークソングの神様」といわれるほど神格化したが、本人は、過激化する社会運動や、それに付随する、自分のプロテストソングの旗手としてのイメージに辟易するようになり、詩のテーマは個人的な内相的なものにシフトしていく。

スタイルは、アコースティックギター、ブルースハープと従来のスタイルと同じではあったが、プロテストソングは一切なくなり、曲調にロックの影響が出始める。
フォーク・ロックの誕生
1964年2月、第1次ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)の波がアメリカにやってくると、ディランはビートルズ、ローリングストーンズなどアメリカ勢と交流を図り、詩の内容だけでメッセージを伝えることにこだわる「フォークソング」に限界を感じるようになり、本来、音楽を始めるきっかけとなったロックの表現方法に戻っていくことになる。
こうして、フォークで培った「詩」を「ロック」の世界に持ち込んだディランは、「フォーク・ロック」という新しいスタイルを音楽の世界に持ち込みます。(ディラン本人はフォーク・ロックといわれることは嫌っているらしい)
1964年「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム(Bringing It All Back Home)」発表。
A面がエレクトリックサウンド、B面がアコースティックを中心にした構成のこのアルバムは米ビルボードで6位、全英1位。
エレクトリックバンドをバックに従えたこの作品は、「最初のフォークロック・アルバム」ともいわれている。このアルバムの1曲「ミスター・タンブリン・マン(Mr. Tambourine Man)」は、とっくにフォークの枠を超えており、のちにバーズによってシングルとしてリリース。ビルボードHot 100で1位、全英シングルチャートでも1位を獲得。
1965年「追憶のハイウェイ61(Highway 61 Revisited)」発表。ビルボード3位。
収録の「ライク・ア・ローリング・ストーン(Like a Rolling Stone)」はビルボードシングルチャート2位。
この曲はフォークのトーキソングをロックのサウンドに融合させた初めての曲、と評価が高い。
この2枚のアルバムの登場で、ディランのファンは従来のフォークシンガーであるディランと、エレクトリックサウンドを受け入れる側と2分する。
従来のフォークファン、プロテストソングを好む反体制派の人たちは「フォークへの裏切り」と、ディランを避難。当時、フォークは大学生や大人が体制批判のためのプロテストソングとして愛好されており、ロックは商業主義にのせられた子供がきくもの、とフォーク愛好者はロックを蔑んでいた。こういった人たちにとって、ディランのロックへの転向とも取れる行為は、商業主義への身売りだとして非難されていた。
1965年の「第5回ニューポート・フォーク・フェスティバル」では、エレクトリックギターをもち、バックバンドを従えたディランをブーイングの嵐で迎え、「マギーズ・ファーム(Maggie’s Farm)」「ライク・ア・ローリング・ストーン(Like a Rolling Stone)」等、数曲演奏した後、アコースティックギターを持って再登場したディランは「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー (“It’s All Over Now, Baby Blue”) 」をうたい、フォークに決別した、ともいわれている。
が、諸説あり、音響設備のお粗末さで音がきちんと聞こえなかったことへのブーイング、用意した曲では時間が足りなかったために、アコースティックで演奏した、ともいわれています。
さらに1965年から1966年にかけて、バックバンド「レヴォン&ザ・ホークス (Levon & The Hawks-後のザ・バンド)」を引き連れておこなったワールド・ツアーは前半がアコースティック、後半がロックという構成で行っていたため、後半からの演奏に、いく先々でプロテストソングの弾き語りを望む昔ながらのファンから、ブーイングや演奏を邪魔する変則的な手拍子など、妨害行為は止まらなかった。(この様子はブートレッグ・シリーズ第4集で聴くことができます)

1966年には2枚組「ブロンド・オン・ブロンド(Blonde on Blonde)」発表。ビルボード6位。UKチャート3位。前回のフォークロック路線を継承した作品。
隠遁生活
1966年、ディランは自宅近くの路上でバイク事故を起こし、アーティストとしての評価は絶頂だったこの時期、長期間の療養に入る。
当時は重傷説も流れたが、実際にはたいしたことはなく、ワールドツアーでの疲労、強行スケジュールに対する不満、神格化しようとするマスコミへのいらだちから逃げるための絶好の機会だったようで、これからやく1年半の隠遁生活にはいり、1965年に結婚したサラ・ラウンズとの間にもうけた子供達と静かに個人としての自分を取り戻していく。
この変化は今後のディランの音楽を大きくかえていく。
1967年からは、ウッドストックの農家の納屋を改装した、通称「ビッグ・ピンク(Big Pink)」にこもって、「ザ・バンド(The Band)」と名を改めたホークスとデモテープ作りに没頭。このときの録音は、伝承音楽、ブルース、ロックなど様々な音楽に取り組んでいる。(この時のモノテープに録音した曲は100曲以上に及び、一部は海賊版も出回ったが、1975年「地下室(ザ・ベースメント・テープス-The Basement Tapes)」として発表された。)

ディランが隠遁生活をしていた1967年、アメリカは「サマー・オブ・ラブ」の季節を迎え、ロックの世界は急激に成熟。この時期に隠遁し、時代のカリスマとして消費されなかったのは、幸運だったといえる。
ルーツ回帰
1968年 「ジョン・ウェズリー・ハーディング(John Wesley Harding)」発表。ビルボード2位。UKチャート1位。
ルーツ回帰を思わせる、アコースティックな作品。
1969年「ナッシュヴィル・スカイライン(Nashville Skyline)」発表。ビルボード3位。UKチャート1位。
ジョン・ウェズリー・ハーディングにみられた、カントリーへの傾倒が顕著なアルバム。純粋なカントリーアルバムとなっている。
親友のカントリー歌手「ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)」をゲストに迎えデュエットするなど、話題を呼んだ。
また、いままでのしわがれ声を捨て、すんだ声を披露、世間を驚かせた。
1970年「セルフ・ポートレイト(Self Portrait)」発表。その4ヶ月後には「新しい夜明け(New Morning)」発表。このアルバムに先立ち、ジョージ・ハリスンとセッションし「イフ・ナット・フォー・ユー(If Not For You)」という曲をそれぞれのアルバムに収録。(「オール・シングス・マスト・パス (All Things Must Pass)」に収録)
1971年にはジョージ主催の「バングラデシュ難民救済コンサート」に参加。
1973年 サム・ペキンパー(Sam Peckinpah)が監督の映画「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」の音楽担当を務め、自らも出演。サウンドトラックから「天国への扉(Knockin’ on Heaven’s Door)」という名曲を生む。
またこの年、コロンビアからアサイラムへ移籍。「プラネット・ウェイヴス(Planet Waves)」発表。ディラン初のビルボード1位。ザ・バンドをひきつれて8年ぶりの全米ツアーを行い話題となる。そのライブアルバム「偉大なる復活(Before the Flood)」はビルボード3位。UKチャート6位。
コロンビアは移籍への報復手段として、「セルフ・ポートレイト」のアウトテイク集である「ディラン(Dylan)」をリリース。

全米ツアーの成功は彼に自身を復活させ、1975年にはアルバム「血の轍 -(Blood on the Tracks)」発表。
ビルボード1位、UKチャート4位。
1976年「欲望(Desire)」発表。ビルボード1位、UKチャート3位。
両方ともディランのスタジオアルバムでベストセラーとなった作品。
ローリング・サンダー・レヴュー(Rolling Thunder Revue)
「欲望」のレコーディングメンバーを母体としたハウスバンド「グアム(Guam)」を結成し、「ローリング・サンダー・レヴュー(Rolling Thunder Revue)」というライブツアーを決行。参加者はジャック・エリオット、ジョーン・バエズ、ロジャー・マッギン、詩人のアレン・ギンズバーグ、ゲストでジョニ・ミッチェル、パティ・スミス、デニス・ホッパーなど、かなりの大所帯であった。
このツアーは前もって会場を決めずに、巡業中に小規模のホールを手配、直前になってからチラシやポスターなどで知らせるという、初期のアメリカの巡業ショーのような形を取っていた。このスタイルは巨大産業化したロック・ミュージックに対する反発の姿勢を示したともいわれている。
このライブツアーは1976年、ライブアルバム「激しい雨(Hard Rain)」として発表。
(このツアーではディランが初めて監督した「レナルド&クララ (“Renaldo and Clara”)」も同時に撮影され、1978年に公開されたが難解すぎる、と興行的には失敗する。)
同年、ツアーメンバーの「ザ・バンド」が解散。
解散ライブ「ザ・ラストワルツ」にゲスト出演。
1978年 12年ぶりのワールドツアーを開始。初の来日公演を行い、ライブアルバム「武道館(Bob Dylan at Budokan)」リリース。
ツアー終了後には「ストリート・リーガル(Street Legal)」リリース。はじめて大掛かりなバンド編成(女性コーラスを含む)で挑んだ作品。ビルボード11位、UKチャート2位。
ワールドツアーで訪れたサンディエゴで、客席から投げ入れられた銀の十字架に触れたことで神の啓示を受けた、と思ったディランはツアー終了後、聖書を猛勉強し、プロテスタントの教会で洗礼を受けたことをカミングアウト。
1981年までの間に「ゴスペル3部作」と呼ばれるアルバム3枚
「スロー・トレイン・カミング(Slow Train Coming)」「セイヴド(Saved)」「ショット・オブ・ラブ(Shot of Love)」をリリース。

この時期のコンサートでは、これらのアルバムからの曲しか演奏せず、興行的には動員も伸び悩んだ。そのため後期のツアーは、初期のヒット作も盛り込んだ演目にするなど妥協も見せた。
苦悩の時代
1980年代はディランの苦悩の時代ともいえる。
1983年「インフィデル(Infidels)」1984年「エンパイアー・バーレスク(Empire Burlesque)」1985年「バイオグラフ(Biograph)」1986年「ノック・アウト・ローデッド(Knock Out Loaded)」1988年「ダウン・イン・ザ・グルーブ(Down In The Groove)」1989年「ディラン&ザ・デッド Dylan & The Dead」
と、毎年のようにアルバムを発表。時代は多重録音などのスタジオワークでアルバムを作り上げていく時代に入っており、本来一発取りを得意とするディランも、スタジオで試行錯誤を繰り返す時代となる。
この時期、興行的に成功したアルバムは2つ。
1つは、1985年発表のコンピレーションアルバム「バイオグラフ(Biograph)」。
ライナー・ノーツ、ディラン本人の各曲に対するコメント、レア・フォトを含むブックレットがついたこのボックスセットは、当時ロックでは珍しい企画であり、ヒット。以降、多くのアーテスト達も取り入れていくようになります。
もう1つは、1988年発表の「トラベリング・ウェルベリーズ Vol.1(Traveling Wilburys Vol. 1)」。
ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、ボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソンからなる、覆面バンドで作られたアルバム。メンバーは「ウィルベリー家の兄弟」という設定で全員サングラス着用(しかし、簡単に特定できる)。

しかし、この時期ボブ・ディラン単独では大きな会場での公演は、興行的に難しくなっており、この時期ザ・ハートブレイカーズ(The Heartbreakers)、「サンタナ(Santana)」や「グレイトフル・デッド(The Grateful Dead)」とパッケージツアーを行う。このころ、グレイトフル・デッドのメンバーに入れてくれと打診したことがあるほどディランは自信をなくしていた。
ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour)
スタジアムツアーをおえたディランは1988年から、より小さなホールで最小限の人数で即興性のあるツアーを行うようになる。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年にひとまず完結。これ以降のディランのツアーは、ファンから(それぞれタイトルがちゃんとあるのだが)「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と呼ばれるようになる。この時期、ディランは年間100回近いペースでツアーを続けている。
1988年にはロックの殿堂入りを果たす。
1989年「オー・マーシー Oh Mercy」リリース。1990年「アンダー・ザ・レッド・スカイ Under The Red Sky」リリース。これ以降、彼は7年間、オリジナルアルバムを作らなくなる。
1992年「グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー(Good as I Been to You)」1993年「奇妙な世界に(World Gone Wrong)」リリース。民謡やブルースのカバー曲集。自作の楽曲がないアルバム。
1993年「30thアニバーサリー・コンサート・セレブレーション(The 30th Anniversary Concert Celebration)」リリース。このアルバムはボブ・ディランのレコード・デビュー30周年を記念して、数多くのアーティストがディランの楽曲を演奏したライブを録音した2枚組アルバム。
1995年「MTVアンプラグド(MTV Unplugged)」リリース。「MTVアンプラグド」の企画としてスタジオの観客を前に演奏をし、録音・録画が行われたもの。
復活
そうして、1997年 全新曲の「タイム・アウト・オブ・マインド(Time Out of Mind)」リリース。もう新曲が聴けないと思っていたファンを狂喜させた。このアルバムは1998年のグラミー賞を受賞。
2001年にはゴールデングローブ賞 主題歌賞とアカデミー歌曲賞を受賞。以降も次々とグラミーを取得。
2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞。
こうして21世紀を迎えた今も、ロックの歴史の重要人物は、涼しい顔でマイペースにアルバムリリースし続け、ツアーを行っている。
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