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レディオヘッド(Radiohead)について
レディオヘッド(Radiohead)は、1985年に結成された、イギリスのオルタナティブ・ロックバンド。
メンバーは
トム・ヨーク(Thomas Edward Yorke)
コリン・グリーンウッド(Colin Charles Greenwood)
ジョニー・グリーンウッド((Jonathan Richard Gordon Greenwood)
エド・オブライエン(Edward John O’Brien)
フィル・セルウェイ(Philip James Selway)
クラッシックから現代音楽、電子音楽など、あらゆる要素を取り入れ、アルバムごとの作風が全く異なることでも知られている。
近年ではレコード会社からの関与をいっさい拒絶し、メジャーレーベルを通さず、各国の条件の良いインディーズレーベルと契約しアルバムをリリース。
アーティスト主体でアルバムを作成、なおかつ成功していることで、業界を震撼させた。
誕生
レディオヘッドの前身は今でのメンバーの5人が、オックスフォードにある、全寮制に男子校アビントン・スクールで出会うことから始まる。
はじめは同級生のトム、コリンが同級生で意気投合、その後1歳年上のエドを誘い、学校の音楽室で活動を開始、ドラムマシンを使っていたが、必要性にかられ、上級生のフィルに声をかけ、バンド名を「ON A FRIDAY」と名付ける。
この集まりに入り浸っていたコリンの弟、ジョニーはキーボードを持ち込み、練習に参加、正式メンバーとしては認められなかったものの、ハーモニカでライブの参加が認められた。
こうしたメンバーで、「ON A FRIDAY」はオックスフォードのジェリコタバーン(Jericho Tavern)で初ライブを果たす。
1987年までに、ジョニー以外のメンバーが大学に行くためにアビントン・スクールを離れたが、週末や休日には集まり、リハーサルを続け、オックスフォードでギグを行ったり、デモテープをとりためたりしていた。(1991年に「Manic Hedgehog demo」という名称で地元のレコード店で販売された)
オックスフォード州とテムズ・バレーは、1980年代後半に積極的なインディ・シーンがあったが、それは「ライド-Ride」や「スロウダイブ-Slowdive」のようなシューゲイザー・バンドに集中されていた。
彼らが大学生活を終えてかえってきた頃には、「On a Friday」はこのトレンドにはフィットしているとは見なされなかった。
それにも関わらず、「On a Friday」はかなりのライブを増やし、レコード・レーベルやプロデューサーたちは、興味を持つようになる。
ある日、スローダイブ(Slowdive)のプロデューサーで、オックスフォードのコートヤード・スタジオの共同経営者である、クリス・ハフォード(Chris Hufford)は,ジェリコタバーン(Jericho Tavern)での「On a Friday」のギグをみる。
バンドに感銘を受けたクリス・ハフォード(Chris Hufford)と、彼のパートナーブライス・エッジ( Bryce Edge)は、早速「On a Friday」のデモテープを作り、なおかつ「On a Friday」のマネージャになった。いまでも彼らはレディオヘッドのマネージャーである。
当時コリンが働いているレコード屋で、コリンは現EMI代表のキース・ウォーゼンクロフトと出会う。当時キース・ウォーゼンクロフトは販売担当でそのレコード店の担当であった。コリンは自分たちの作成したテープを売り込んだ。
ほかのレーベルにもデモテープを送った結果、業界ではこのテープの話題で持ち切りになり、最終的にEMI参加のパーロフォン・レーベルと正式に契約を結ぶ。
その後レーベルから、バンド名の変更を希望され、トーキングヘッズのアルバムトゥルーストーリーの中の1曲のタイトルから「Radiohead」と名前を変更。
バンド「Radiohead」が誕生した。
デビュー
1992年 レディオヘッドはデビューEP「ドリル-Drill」発表。評判は芳しくなかった。
その後バンドはダイナソーJr(Dinosor Jr)やピクシーズ(Pixies)を手がけたプロデューサー、ポール・コールドリー(Paul Kolderie)ショーン・スレイド(Sean Slade)をむかえてオックスフォードスタジオで早急にデビューアルバムのレコーディングを開始。
その年の下旬、先行シングルとして「クリープ-Creep」発表。
この曲は、放送禁止用語と悲惨な歌詞などを理由にBBCからは放送禁止扱いになるが、一方でイスラエル、アメリカなどで若者から圧倒的な支持を受け、最後にイギリスで火がつくことになる。
1993年、デビューアルバム「パブロハニー-Pablo Honey」発表。
「クリープ-Creep」を含めて4曲がシングルカットされ、どれもPVが作られたが、「クリープ-Creep」以外のシングルカットはどれも不発に終わる。
バンドはイスラエルでのライブのほか、ヨーロッパツアーを行い、最後にアメリカでの初ライブを行った。
ツアーやライブは各地でソールドアウトし、追加公演まで行われたため「クリープ-Creep」がイギリスで再リリース、やっとイギリスで火がつくことになる。
追加ツアーの仕事をこなしながら、セカンドアルバム「ザ・ベンズ(The Bends)」の制作を開始。
このアルバムは、追加ツアーで疲労しきったメンバーの軋轢などでいったんレコーディングが中止されたが、ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)を世に送り出したことで有名なプロデューサー・ジョン・レッキー(John Leckie)をむかえ、何度かツアーで中断しつつも、1995年リリース。
「ザ・ベンズ(The Bends)」はアルバムの評価は高かったが、リリース当初はセールス的に苦しんだ。
しかし、5つ目のシングルカット「ストリート・スピリット – Street Spirit」が、過酷なスケジュールのツアーのかいがあって大きな成功を集める。
結果、「ザ・ベンズ(The Bends)」は上位のチャートにはあがらなかったが驚異的なロングセールスを記録した。
オーケー・コンピュータ(OK Computer)
1996年 「ザ・ベンズ(The Bends)」の成功の後、レディオヘッド(Radiohead)は3枚目のアルバムを自分たちで作ることをきめ、EMIもツアーの連発で前回のレコーディングが大幅に遅れ手しまったことを考慮に入れたためそれを承諾、レコーディングの主権をレディオヘッド(Radiohead)にゆだねた。
レディオヘッド(Radiohead)は彼ら自身でレコーディングスタジオをつくり、自ら機材を買いそろえ、レコーディングセッションに備えた。
そしてプロデューサーにナイジェル・ゴッドリッチ(Nigel Godrich)を迎え、3枚目のアルバム「オーケー・コンピュータ(OK Computer)」のレコーディングを開始。
この頃から、ロック以外の音楽の活動を始めるようになり、レコーディングの合間にバズ・ラーマン監督「ロミオ+ジュリエット」のサントラに「talk show host」「Exit Music」の2曲を提供。(「talk show host」のみがサウンド・トラックに収録)
1997年「オーケー・コンピュータ(OK Computer)」リリース。
「Paranoid Android」「Karma Police」「No Surprises」の3枚がシングルカットされた。(ほかに各国限定のシングルカットもある)
このアルバムは、今までと違い、実験的な試みが加えられており、メンバーはとても満足していたが、一部のレーベルからは大衆受けがしない、と批判的だった。
しかし、リリース後、メディアの評価は高く、セールス的にも、UKチャート初登場1位、USチャートも前作以上のロングセールスを記録。
「オーケー・コンピュータ(OK Computer)」はレディオヘッド初めての世界的なヒットとなる。
つづく
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