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デヴィッド・ボウイ(David Bowie)ヒストリー
1947年 イギリス生まれ
本国イギリスではビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーンらと並んで20世紀のイギリスを代表するロック・スター。
前衛とポップミュージックを両立しつつも成功させている稀有なミュージシャンのひとりである。
デビュー
1964年 「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ Davie Jones and the King Bees」という名前で音楽活動を開始。
ヒットに恵まれず、いくつか名前を変え、1966年から使い始めた「デヴィッド・ボウイ David Bowie」で名前を定着。
1967年6 月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ David Bowie』を発表。
同年、出演した短編映画が縁で、リンゼイ・ケンプと出逢う。
1968年1 月から3月までリンゼイ・ケンプの劇団の元で過ごし、パントマイムの腕を磨いた。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにした
『スペイス・オディティ(Space Oddity)』発表。
このアルバムが全英、全米両チャート上位に食い込み、人気ミュージシャンの仲間入りを果たす。
発表の後にボウイはライヴ専用のバンドの結成を試み、ベーシスト兼プロデューサーのトニー・ヴィスコンティやいくつかのセッションで親交を結んだ人物らを中心に、「ハイプ(The Hype)」と名乗るライヴ・バンドを結成。
ハイプはすぐに解散となったが、グラム・ロック時代のボウイの女房役となるミック・ロンソン(g)との付き合いがここから始まることとなる。
グラム期
トニー・ヴィスコンティのプロデュースで、1970年、『世界を売った男(The Man Who Sold The World)』リリース。
1971年『ハンキー・ドリー(Hunky Dory)』発表。
1972年キャリア中で最も有名な『ジギー・スターダスト(The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars)』発表。
別の惑星から来た両性具有のバイセクシャルなロックスターを描いた架空のオペラを描いたこのアルバムはイギリス全土の注目の的となり、好セールスを記録した。演劇的要素を含んだコンサートも話題を呼び、初のアメリカ遠征ツアーも行った。この成功でボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立。
続く1973年発表の『アラジン・セイン(Aladdin Sane)』はデヴィッド・ボウイというよりもアーティスト「ジギー・スターダスト」のアルバムとなった。
しかし、超過密なスケジュールはボウイを蝕み、1973 年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、突然の引退宣言。
しばらくして全曲子供の頃好んで聞いていた曲のカヴァーで構成されたアルバム『ピンナップス』 – Pin Ups(1973年)発表。
その後バンドを解散。ミック・ロンソンとも離れることになり「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。
フィラデルフィア・ソウル期
「ジギー・スターダスト」からの脱却を図ろうとするボウイは、イギリスの作家であるジョージ・オーウェルの作品『1984年』に影響を受け、ミュージカル化を企画。
しかし著者の未亡人に拒否されたため、代わりにこの作品をモチーフとしたアルバム『ダイアモンド・ドッグス(Diamond Dogs)』を1974年に発表。アルバム内の歌詞は、アメリカの作家であるウィリアム・バロウズの影響で「カットアップ」という手法で作成された。
この『ダイアモンド・ドッグス Diamond Dogs』は、アルバムツアーが行われたが、トラブルなどで中断している間、ボウイは突如フィラデルフィア・ソウルに傾倒、再開したツアーではソウル・ミュージックを取り入れた全く異なるステージングへと路線を変更。ファンを驚かせた。
1975年『ヤング・アメリカンズ(Young Americans)』発表。
全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム Fame」を含むこのアルバムはシグマ・サウンド・スタジオ(フィラデルフィア・ソウルの本拠地といわれる)でレコーディングされただけに、ソウル色の濃い作品。
この直後、初の主演映画『地球に落ちてきた男 The Man Who Fell to Earth』の撮影が始まっている。
1976年『ステイション・トゥ・ステイション(Station to Station)』発表。
当時ナチスに傾倒していたボウイは、アルバムに新たなキャラクター、シン・ホワイト・デュークを登場させ、ナチズムを強く意識したステージ構成になったためメディアからは激しいバッシングを受け、ロサンゼルスの暮らしに辟易したボウイは友人イギー・ポップとともにベルリンへ移住。
ベルリン期
ベルリンでは、ドラッグから足を洗い、静かにアートの研究に没頭した生活を送っていた。
そのころ、ドイツではエレクトロニック・ミュージックが台頭しており、興味を引かれたボウイは、ブライアン・イーノと組み1977年『ロウ( Low)』『英雄夢語り(Heroes)』1979年『ロジャー(Lodger)』を発表。
この3作はのちに「ベルリン三部作」と呼ばれるようになる。
特に『ロウ( Low)』はニューウェイヴの先駆として70年代後半の最も重要なアルバムのひとつだと現在も高い評価を得ている。
1980年、ボウイは再びアメリカに戻り『スケアリー・モンスターズ(Scary Monsters)』発表。
斬新なビデオクリップを次々と繰り出して話題を集めた。
ポップロック期
1983年、莫大な契約金を受けて移籍したEMIアメリカから1983年『レッツ・ダンス』をリリース。
カルト・スターからポップロック路線へと作風が変化したこのアルバムは、時代にマッチし、世界規模のヒットとなる。
ナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したこのアルバムはボウイのキャリア最大のメガヒットアルバムとなった。
1983年の人気はボウイの歴史で絶頂期にあったともいえる。しかし、大ヒットを得たアーティストの例外にもれず、迷走と模索の時期がやってくる。
1984年、『トゥナイト(Tonight)』発表。
シングル「ブルー・ジーン」がヒットしたものの、前作の焼き直しであると評判は振るわなかった。
1987年、『ネヴァー・レット・ミー・ダウン(Never Let Me Down)』発表。
大規模なワールド・ツアーを発表したが、すでに時代の流れからは遠のいてしまっていた。
ティン・マシーン期
1989年、バンドのヴォーカリストとして活動する方針で元ユートピアやイギー・ポップ・バンドのメンバーらとティン・マシーン結成。3枚のアルバムをリリース。
ティン・マシーンは今までのゴージャスなサウンドとステージとうって変わった、彼のルーツとなったブリティッシュ・ビートや60年代後半の英国ロックを現代的手法で蘇らせたシンプルなロックバンドであった。
ティン・マシーンへの評価は芳しいものではなかったが、この活動でボウイ自身が生気を取り戻したという意味では重要な期間である。
ティン・マシーンとしては、1989年『ティン・マシーン(tin machine)』1991年『ティン・マシーンII(tin machine II)』という2枚のアルバムを発表。
一方、ティン・マシーンの活動と同時に、RCA時代の音源の再発にあわせて、世界各地を回るサウンド・アンド・ヴィジョン・シリーズと銘打ったワールド・ツアーを敢行。
「今後過去の楽曲の一切を演奏しない、このツアーで最後」という、過去の自分に対しての決別宣言付きのツアーであった。
再生期
1993年、ボウイはソロ活動を再開。
ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ(Black Tie White Noise)』発表。
同年、英BBCが制作したドラマのために書き下ろしたサントラ盤『郊外のブッダ(The Buddha of Suburbia)』(輸入盤のみ)発表。
セールス的には芳しくなかったが、音楽的には高い評価を得る。
1995年、ブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド(1.OUTSIDE)』発表。
シングルカットされた楽曲「ハーツ・フィルシー・レッスン(The Hearts Filthy Lesson)」は、映画『セブン』のエンディング・テーマに使用された。猟奇殺人とアートをテーマにしたこのアルバムは当初難解だという声もあり興行的には不振ではあったが、ニルヴァーナなどが公の場でボウイのカバーをするなどの動きもあり、徐々にボウイの評価は高まっていく。
その後も、
1997年『アースリング(Earthling)』
1999年『アワーズ…(hours…)』
2002年『ヒーザン(heathen)』
など、実験的なアプローチを導入した意欲作を次々と発表。
2003年『リアリティ(Reality)』発表時には大規模なワールドツアーを開始。好評を博したがツアー終盤で心臓手術を受け、ツアーは中断。一時は再起が危ぶまれたが、順調に回復。すこしずつであるが、イベントやライブのゲストなど出演し、現在も活動中である。
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