5.サーフィン・ホットロッド-1960-1964年

  1. アメリカ-サーフィン・サウンドの始まり
  2. ビーチボーイズ(The Beach Boys)の登場
  3. プロデューサーとソングライターたち

5.サーフィン・ホットロッド-1960-1964年

C.プロデューサーとソングライターたち


Western Recorders

Western Recorders

ビーチボーイズ(The Beach Boys)の成功がレコードビジネスに脅威をあたえたのは前述の通りですが、サーフィン・ホットロッドの需要に乗り遅れまいと、レコード会社は、既に成功しているソングライターに「売れる」サーフィン・ホットロッドの曲を発注するようになります。

「売れる」曲を作ったと評価されたのは、ビーチボーイズ、ジャン&ディーン(Jan & Dean) 周りの一握りのライター達でしたから、結果的に、彼らに仕事が集中するようになります。

それを、レコード会社各社は、お抱えのコーラスグループに歌わせるようになりますが、インストのときとは違い、歌を歌えるグループには限りがあるため、一つでもおおくのヒットを出したいレコード会社は、スタジオミュージシャンで録音し、適当なグループ名を付けて録音したものを、レコードだけの覆面バンドとして発売するようになります。

当時はまだまだ、音楽の流通のメインはラジオであり、実体がなくてもレコードが売れれば、ビジネスとしては問題がない時代でした。

音楽業界には、新人のバンドを一から育てる時間を取る気はありませんでした。業界は、このサーフィン・ホットロッドは一過性のブームであり、すぐに廃れると思っていたのです。はやっているうちに、ヒットを出したいという気持ちが業界にはありました。
実際、一発屋で終わってしまうバンドも少なくありませんでした。

The Wrecking Crew

The Wrecking Crew

また、この時代、ロサンゼルスでは優秀なスタジオミュージシャンが、安いギャラで雇える環境にありました。
一時期栄えていた、ロサンゼルスのジャズ・シーンはこの時期衰退を迎えており、腕のいいミュージシャンが、仕事にあぶれていたのです。

「ジャン&ディーン(Jan & Dean)」を売り出した、マネージメント業を営む「ルー・アドラー(Lou Adler)」はそこに目を付け、ジャン&ディーンのレコーディングに「ハル・ブレイン」「スティーヴ・ダグラス」などという、ジャズ系のミュージシャン(のちのレッキング・クルーThe Wrecking Crew)を頻繁に使い、質のいい演奏でのレコーディングを始めます。

この手法が、このすぐ後に頭角を現してきたフィル・スペクターが、大いに取り入れたことを皮切りに、ブライアン・ウィルソンも取り入れたことから、以降、ロサンゼルスのレコード会社のレコーディングの主流となっていきます。

こうして、プロが作った覆面バンドは、ヒットチャートをにぎわすこととなったのですが、やはり、こうしたはやりの音楽は、次の世代の音楽の台頭に脅かされ、主流からは外れていきます。
しかし、このときヒットを作り出した彼らは、このあとのアメリカの音楽業界の重要人物となっていくのです。

ソングライターと覆面バンド
ゲイリー・アッシャー
(Gary Usher)
ブライアン・ウィルソンと主に初期ビーチボーイズの「409」「In My Room」「Ten Little Indians」などを共作。
レコード会社の大量発注を受けて、たくさんのサーフィン・ホッドロッドの作品をプロデュース。
アストロノウツなどの既存のバンドのプロデュースもしたが、スタジオミュージシャンを使って架空のバンド「ホンデルズ(The Hondells)」「フォー・スピーズ(Four Speeds)」「バディーズ(The Buddies)」「ナイツ(Knights)」「タイマーズ(The Timers)」「ネプチューンズ(The Neptunes)」「リヴェルズ(The Revells)」「グール(The Ghouls)」などを作りあげる。
チャートの上位をにぎわしたのは「スーパー・ストックス(SUPER STOCKS)」。
後に「バーズ(The Byrds)」「チャド&ジェレミー(Chad & Jeremy)」「サジタリアス(Sagittarius)」「ミレニウム(Millennium)」のプロデューサーをつとめる。
Gary Usher

Gary Usher

SUPER STOCKS

SUPER STOCKS
ロジャー・
クリスチャン
(Roger Christian)
LAのラジオ局KFWBのDJ。作詞家。
かなりのカーマニアで、ブライアン・ウィルソンとホットロッドのほとんどの曲「Ballad of Ole’ Betsy」「Car Crazy Cutie」「Cherry, Cherry Coupe」「Don’t Worry Baby」「In the Parkin’ Lot」「Little Deuce Coupe”」「No-Go Showboat」 「Shut Down」「Spirit of America」の作詞を担当。ビーチボーイズのホットロッド路線を強力にサポートした。
他にジャン&ディーンに「Dead Man’s Curve」「The Little Old Lady from Pasadena」「Sidewalk Surfin」「Drag City」「Honolulu Lulu」「You Really Know How to Hurt a Guy」も提供。
ホットロッドブームの火付け役ともいえる。
Roger Christian

Roger Christian

Little Deuce Coupe

Little Deuce Coupe-
The Beach Boys
P.F.スローン
(P. F. Sloan)

スティーヴ・バリ
(Steve Barri)
ジャン&ディーン(JAN & DEAN)に曲を書き、バッキングコーラスとしても、レコーディングに参加していたソングライターコンビ。
ジャン&ディーンには「Summer Means Fun」、「Tell ‘Em I’m Surfin’」などの楽曲を提供。
架空4人組グループ「ファンタスティック・バギーズ(The Fantastic Baggys)」を作成。
後に、ルー・アドラー(Lou Adler)が興す「ダンヒル・レコード」の主力ライターとなり、ママス&パパスなどに楽曲を提供。また他のレーベルではあったが「タートルズ(The Turtles )」にも多くの楽曲を提供している。
P. F. Sloan & Steve Barri

P. F. Sloan & Steve Barri

The Fantastic Baggys

The Fantastic Baggys
ブルース・ジョンストン
(Bruce Johnston)

テリー・
メルチャー
(Terry Melcher)
コロンビア・レコードのプロデューサーコンビ。
多くのサーフィン・ホットロッドグループをプロデュースするが、有名なのが「リップ・コーズ(The Rip Chords)」。
メンバーの出入りが激しく、メンバーの安定しないこのグループにかわって、この2人がボーカル、コーラスを吹き込みし、演奏はレッキングクルー、と覆面バンドの形になっていきます。
覆面バンドとしては他に「ザ・ホットドッガーズ(The Hot Doggers)」。
2人は「ブルース&テリー」としてもいくつかのレコードを発表。
ブルース・ジョンストンはのちにブライアン・ウィルソンの代役としてビーチ・ボーイズに参加、テリー・メルチャーは後に「バーズ(The Byrds )」を発掘することになる。
Bruce & Terry

Bruce & Terry

The Rip Chords

The Rip Chords
マネージャー
ルー・
アドラー
(Lou Adler)
1950年代後半に ハーブ・アルパート (Herb Alpert)と、ソングライターとしてサム・クックの曲を提供。
その後、マネージメント業に転身して「ジャン&ディーン」を売り出す。
(ハーブ・アルパートは後にジェリー・モスJerry MossとA&Mレコードを設立)
時代に対する嗅覚が鋭く、サーフィン、ロッククラッシック、フォークロックと時代の波に会わせた人材を次々と発掘、マネージメントし成功をおさめる。
後に「ダンヒル・レコード」を興し、「バリー・マクガイア(Barry McGuire)」「ママス&パパス(The Mamas & the Papas)」を輩出。
サンフランシスコの音楽シーンが勢いづいてきたときには「ダンヒル・レコード」を売却し、その資金でサンフランシスコでモンタレー・ポップ・フェスティヴァルを開催。
その後ニューヨークのアルドン・ミュージック西海岸支店長となり、キャロル・キングをシンガーとしてソロデビューさせ、「シンガー・ソングライター」の時代を演出することになる。
Lou Adler

Lou Adler

The Mamas & the Papas

The Mamas & the Papas

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5.サーフィン・ホットロッド-1960-1964年

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